初代城主田村刑部大夫春方公の祖は坂上田村麿将軍なり 其12世仲寶公弘安年中勅に依り信州新井庄より来たり幽宮の祭司となり下河合に城郭を構え其子孫連綿と続く
所領は郡家郷 志筑庄 草加 播州加古川 溝口 明石大蔵谷 泉州佐野 河内国等なり後再び田村麿の末孫信州城主義康公の孫春方公當地に来たり祭職を継承中村に築城事寶上初代城主となる
随う重臣は石上氏 砂川氏 伊東氏
渡邊氏 河合氏 都志氏
田村氏等なり公は當山に寶珠法経五千部を奉納 明慶3年4月3日薨去さる
2代城主左馬正春良公は永正18年當山を此地に移し宏壮な伽藍を造営
大永2年寺領を寄進 同5年一宮宝殿を建立 同年7月23日薨去さる
3代城主左馬助盛春公は法治元年一宮社殿を造修 同年4月13日一宮社家六坊を廃し宮坊を建立當山の末寺として一宮の神事を執行せしめ 當山を一宮別當に任ず
同3年當山御堂を造立 永緑2年3月14日薨去さる
4代城主修理之進村春公は永禄9年一宮本殿造立 天正6年當山御堂瓦造営 同7年1月17日薨去さる
5代城主治部兵衛経春は国士無双の武将にして法華経の大信者なり 天正7年織田信長公より武田攻撃の先峰たる下命あり再三の催促を拒否し切れず下命に従わば家臣を死傷せしめ良民を苦境に陥る事と成らんか進退茲に窮まり意を決し當山の祖霊を拝し信長公の使者に家臣良民の後事を託し従容として自盡さる
時に天正9年3月18日なり
嗚呼古城は疇昔に非ず今人自ら来往すと 惟うに世は戦乱攻城野戦を事とす 然れども代々の城主大乘妙典に帰依し佛祖の遺誠を遵守し寺社に盡せし偉業を称美讃歎し身軽法重烈信の崇祖の偉霊を顕彰せんのみ
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